本日のお題は、新しい田んぼ「シンデン」です。
▪️小田原にある2つの新田
小田原市内には2つのエリアで「新田」が付いた町丁名があります。小田原市の中心部は、昭和40年代に行われた「住居表示整備事業」によって、昔からの大切な地名が住所表示から消えてしまいましたが、この辺りは日本三大愚策から逃れて昔の地名が残せたように見えます。(これが伏線…)
- 小田原北部の狩川〜仙了川流域の穴部新田、清水新田及び柳新田
- 小田原南部の酒匂川左岸(東岸)の中新田、上新田及び下新田
その起源は北條氏の時代の後、江戸時代初期に行われた治水事業と農地開拓に始まります。小田原プライドの皆さんは戦国時代の北條推しが多く、二宮尊徳さん以外の江戸時代にはあまり興味がないようで。。。(観光客集客のネタにならないんでしょうね)
▪️小田原市北部の新田開発
富水地区自治会連合会の資料によると;
小田原城主 大久保氏による大口堰造成に併せ、足柄平野に新田開発が促され、飯田岡の地に穴部新田(1650年)、清水新田(1650年)及び柳新田(1658年頃)がつくられました。
とあります。
それにしてもこの辺は飛地が多く町の境が入り組んでいます。飯田岡駅〜相模沼田駅あたりは南足柄市の境界も入り組んでいる。
穴部新田
狩川の右岸、現在の大雄山線穴部駅東側付近。現在でも狩川と大雄山線に挟まれたエリアに田んぼがたくさん残っています。
西側の諏訪ノ原公園周辺の山間部の飛地は、当時の入会地でしょうか?
写真奥に見える高架の建築物は多分小田原厚木道路。小田原厚木道路は1969年暫定2車線で開通し、その後改良を行い1979年に4車線立体で開通したそうです。
戦後間も無く撮影されたようなモノクロの古そうな写真… いくら何でも1970年代ならカラー写真が残っていると思いますが。。。
清水新田
狩川の支流 仙了川沿岸のエリア。仙了川左岸(東側)は宅地化が進んでいますが、右岸(西側)を中心に田んぼもまだ多く残っています。
写真の場所は大雄山線撮り鉄の際のおすすめポイントの狩川土手。線路との間が田んぼで遮るものがなく、天気次第で富士山をバックに撮影できます。場所も十分広いので、撮り鉄さん同士で罵倒しあうこともなく平和に撮影できます。
柳新田
仙了川の右岸(西側)のエリアで小川がいくつか流れてました。「柳新田」の名の由来は、前述の富水地区自治会連合会の資料によると;
仙了川の土手で防水のため柳がたくさん植えられていたので、この名がついた… 注)柳の木は湿気を好み土手深くまで丈夫な根を張るため、川岸が崩れるのを防ぎ川の氾濫を防ぐ効果がある
とのことで、現地探索中に柳の木のある公園を見つけました。
▪️小田原南部の新田開発
西は酒匂川、北は国道255と巡礼街道そして南は線路で囲まれたエリアです。東は鴨宮駅あたりが境です。
小田原デジタルアーカイブによると「慶長(1596年から1615年)~万治(1658年から1661年)ごろ開発」とあります。
また『新編相模国風土記稿風土記稿(天保12年(1841)完成)』での鬼柳堰に関する記述によると;
大井町西大井で酒匂川から堰分かれ(中略)飯泉でまた分流し、1方は鴨宮から中新田へ流れて酒匂川に合流し、もう1方は上新田で酒匂川に合流
とありますので、この辺りの田んぼも灌漑していたようですが、現在は上新田は酒匂川には接していません。酒匂川の流れが変わったのか、上新田が狭くなったのか?
謎(1):中新田〜上新田〜下新田、並び順が変
もうこの辺りには田んぼはほとんど残ってないようなので、電柱の住所表示や施設の名称を頼りに探索していきます。
中新田
この町内は電柱の住所表示看板が設置されてなく、やっと見つけた中新田の痕跡は新幹線の架道橋(BV)の名板でした。
上新田
下新田
謎(2) 南鴨宮にあるX新田の痕跡
南鴨宮の北端は鴨宮駅南口、西は酒匂川、東は下菊川あたりです。
この南鴨宮エリア内に下新田の痕跡が点在して残っています。また現地調査を重ねた結果、中新田の痕跡も南鴨宮や酒匂に確認できました。
この辺の状況より、これまでの学習経験で過去にこの地に何が起きたか大体想像できるようになりました。
神明神社
図書館の西隣にあります。看板には;
- 鎮座地は中新田222-1(この番地は現存しない様子)
- 寛永二年(1635年)、新田村惣鎮守として村の有志が建立
1635年には「新田村」というのが存在した。
下新田交差点
コメダとセブンイレブンがある交差点。この交差点名は知っていたので、ここの住所が下新田だと思ってましたが、南鴨宮。
下新田バス停
鴨宮駅から国道1号線(海側)に向かってバス停は、鴨宮駅〜篭場〜下新田〜中新田〜保健センター入口…と続きます。
交差点や道路の名前のほかに、バス停も昔の町名を残す重要な記録です。
中新田バス停
住所で言うと南鴨宮ではなく西酒匂にある。昔はこの辺りまで中新田だったのか?それとも中新田にあったバス停が、バス路線変更でこの場所に名前を変えずに移ったのか?
小田原ガス 下新田地区制圧器室
小田原ガスによる酒匂川東地区へガス供給開始は1962年とのことなので、その時代この辺の町名は下新田だったと想像できる。
新田公民館
井細田や池上の公民館が扇町にあるのと同じ理由のように、公民館ができた頃この辺の地区名が新田だった証拠か?(現在の地区名は富士見、地区名についてはこちらを参照)
▪️文献調査
南鴨宮〜西酒匂とX新田の関係を確認するため、広報おだわらを調べてみました。
歴史を感じさせない「富士見小学校」の開校時期を調べたら昭和60年。その前から鴨宮駅南側の再開発が行われていた記事を覚えていたので、その時期の広報おだわらを調べたらBINGO!でした。
何とこの地で「第六次新住居表示制度」が昭和60年(1985年)に行われてました。(ここで伏線を回収)
この行政施策により、江戸時代初期から続くX新田の町丁名は分断され、南鴨宮もしくは西酒匂に書き換えられてしまいました。新旧対照表をよく見ると、中新田は東海道に近いところまで広がっていたようです。
施策の目的に「日常、住所の表し方が、特に分かりにくい所を合理的に区画し…」とありますが、分かりにくいと思っているのは誰なんでしょうね。ホント、日本三大愚策です。
例えば政府や行政判断で;
- コズエ(梢枝)ちゃんという女の子を、見た目がデブなのでミキ(幹)ちゃんって変えたらまずいでしょ?
- 健康優良児だけどオツムがイマイチな賢二君を、健二君に変えたらまずいでしょ?
地名って歴史だけでなく、災害などの経験値の伝承情報が含まれてるので、大切にしませんか?
なおこれで「謎(2) 南鴨宮にあるX新田の痕跡」は解決しましたが「謎(1) 中新田〜上新田〜下新田、並び順が変」の謎は解けてません。
昭和57年の地図
広報おだわらの昭和57年6月号に南鴨宮〜西酒匂ができる前の地図がありました。
中新田の一部が今の西酒匂2丁目まで広がっていたことから、北から順に「上新田〜中新田〜下新田」の並びと言えそうです。
これにて謎が全て解けました。念のため後日図書館に行って、当時の境界線が入った地図を見てきます。
2023.11.25追記
国土地理院の旧版地図販売を利用し、最も古い1916年(大正5年)と、Kanatec誕生前1957年(昭和32年)の小田原の地図を入手しました。
酒匂川上流=北から順に「上新田〜中新田〜下新田」の並びで間違いありません。
ここで新たな謎がでてきました。現在の小田原ガスのタンクがある辺りに「下川原」という町名があります。また飯泉橋の上流の酒匂川河川敷に「ダン河原」と書いてあります。
下川原
市内桑原とか小竹の字名で「下川原」という地名が出てきまししたが、飯泉周辺ではヒットしませんでした。なおガスタンク北側の交差点の名称は、漢字違いの「下河原」です。
ダン河原
コトバンクの「飯泉村」の解説に、「(前略)西に段河原(ダンカワラ)堰、東に鬼柳堰が流れる。(後略)」とあります。
(おわり)