正体不明の斜めの道の探検(2)後編

中里にある正体不明の斜めの道の探検に行ったら、水路の名称がとても気になってしまいました。後編ではその辺について調べてみます。

■農薬関係の工場を調べてみた

我が家のタイムマシーン1号「小田原プラットフォーム」より
1984年の地図にあれこれ書き込んでみました

まだ水路がなかったと思われる1984年の地図で調べるのはどう?って気もしますが、我が家のタイムマシーンの性能上、現在の一つ前の時代は昭和後期になってしまいます。

1984年当時、あの周辺にあったと思われる農薬関係の会社を抽出してみました。

(1)日本曹達

沿革によると、1984年には小田原研究所がありました。

ただし、水路からも600mほど離れており、途中に関口川も流れてますので、位置関係的に可能性は低いと考えます。

(2)湘南園芸化学

農薬を扱っていたのは間違いなさそうですが、今一つ情報が足りません。現在この場所には会社はないようです。

「農薬前架道橋」には比較的近いですが、「前」というほどではないです。また水路からも550m以上離れてますので、こちらも位置関係的に可能性は低いと考えます。

(3)クミアイ化学

現在の住宅展示場あたりにあったと思われる農薬工場で、今は敷地の一部に「クミカ物流」という会社があります。液体危険物の輸送などの特殊物流の会社のようです。静岡市清水区にある本社はクミアイ化学と同じ敷地で、社名もそんな感じなので、クミアイ化学の関連企業と思います。

クミアイ化学のWebを見ても、小田原との関係がわかりませんが、現地には今でもクミアイ化学が駐車場を運営している様子や、100mを超える長さのある古い建物があります。

この古くて長い建物の正体がよくわからないので、追加調査が必要です。

【2021.11.03追記】

残念ながら用水路との関係を直接結びつける情報は得られませんでした。周辺には何箇所か、「クミアイ化学管理」の表示がされた駐車場がありましたが、すでに工場としては操業してないと思います。

敷地の周りを1周回って偵察してきましたが、高いトタン塀で囲まれており、中の様子がよくわかりません。周辺には何箇所か、「クミアイ化学管理」の表示がされた駐車場がありましたが、すでに化学工場としては操業していないと思います。

北側(線路側)の壁に火気厳禁の表示や、建屋の屋根に多数の避雷針が立っている様子から見て、現在所在する「クミカ物流」の倉庫のようです。

クミアイ化学が運営する月極駐車場がある(Google StreetViewより)
GoogleMapsでは「一条工務店 小田原国府津展示場」となっているが、そんな感じではない古くて長い建物がある(Google StreetViewより)

水路はこの敷地に隣接または敷地内を流れています。農薬前架道橋は、ここから200m近く離れていることが否定材料。

■農薬前架道橋をもう少し調べてみた

昭和44年(1969年)協定と書いてある
冒頭に掲載した地図が1984年なので、それよりも15年前の建設

この当時、もし;

  • 仮説1 :クミアイ化学の工場敷地が、この架道橋のある市道に隣接するほど広かったら
  • 仮説2 :当時の社名に「農薬」という文字が含まれていたら

さらに可能性が高まります。

■我が家のタイムマシーン1号再登場

(1)仮説1

1954年当時、架道橋のできる15年前ですが、クミアイ化学があると思われる場所と、架道橋ができる場所の間は田んぼなので、これなら工場敷地がそこまで広がってなくても、「前」という表現になると思います。

さらにこの地図を見ると、今のガードよりも東寄りに、1954年当時はガードか踏切があったように見えますので、現在の架道橋は2代目またはそれ以降のものかもしれません。

推理:この辺の線路は築堤の上にあり一段高くなっていたと思います。道路が東側に湾曲しているのは、築堤を登る坂道で、線路を「農薬前踏切」で越えていたとか。。。
我が家のタイムマシーン1号「小田原プラットフォーム」より(1954年)

(2)仮説2

次は社名です。もう一度クミアイ化学の沿革に戻りましょう。

  • 昭和24年(1949年) :庵原農薬株式会社として発足
  • 昭和37年(1962年) :商号をイハラ農薬株式会社に変更
  • 昭和43年(1968年) :商号をクミアイ化学工業株式会社に変更

架道橋建設の1969年当時は「クミアイ化学工業株式会社」に変更後になりますが、架道橋の建設計画や国鉄との協定申請はその前でしょう。

① 地元の皆さんは、企業が自社都合で社名変更しても、そんなのは気にせず呼び慣れた昔の名前で呼びますので、「農薬前」の名称は十分あり得そうです。

② 否定要素は、巡礼街道にかかる橋の「農薬排水路」の表示名称で、クミアイ化学は巡礼街道より下流にあるので、まだ「排水路」になってないはずです。

この位置は工場から見て上流側

■我が家のタイムマシーン2号も登場(これまでの仮説が覆る

最初からタイムマシーン2号も使うべきだったと反省。

タイムマシーン2号の活躍で、これまでの仮説が大きく覆りました。この航空写真を見ると、1960年代にはすでに水路があるようです。

我が家のタイムマシーン2号「国土地理院の航空写真」(1961〜1969)

上流部分のダイナシティウェスト(元 大同毛織)も確認しましたら、正体不明の斜めの道は1960年代にはすでにありました。

我が家のタイムマシーン2号「国土地理院の航空写真」(1961〜1969)

建設当時は道ではなくて水路だったので地図に書かれず、その後暗渠にして道にしたので地図に書かれるようになったというのはどうでしょう?

さらに1952年まで遡ってみましょう。タイムマシーン2号は地図に書いてない部分まで見られるのですが、時代を遡るのはこの年代辺りが限界です。

我が家のタイムマシーン2号「国土地理院の航空写真」(1952)
クミアイ化学周辺
我が家のタイムマシーン2号「国土地理院の航空写真」(1952)
大同毛織周辺(大同毛織の工場創業開始は、撮影翌年の1953年)

この縮尺だとわかりにくいのですが、1952年には水路はあります。

■最終の推論

  • クミアイ化学=当時は庵原農薬(1949〜1962)か、イハラ農薬(1962〜1968)の工場が、用水路の最終放流点の手前にあった
  • 航空写真を見る限り1952年にすでに相当規模の工場施設があり、その敷地内に用水路が通っていた
  • 当時、架道橋の周りは田んぼで、その場所を示すランドマークは1949年創業の「農薬工場」しかなかった

ここまでは間違いなさそうです。

1952年の航空写真からは、戦後暫くは巡礼街道の周辺はほとんど田んぼだったので、普通の農業用水だった可能性も高くなってきました。
単に用水路の名称として、当時のランドマークだった農薬会社が出てきただけかも?もしそうなら、農薬工場の上流域から「排水路」との名称だったのも理解できます。

以上、推論の域を出ないので、この辺で終わりにしましょう。