通りゃんせ

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

「通りゃんせ」は江戸時代に詩が完成したとされる童謡で、

  • 神奈川県小田原市南町の山角天神社、および同市国府津の菅原神社や、埼玉県川越市の三芳野神社が舞台であるという説
  • 神隠し伝説、人柱・生贄、埋蔵金伝説に関連する歌という説
  • 特に関西では、被差別部落に関連する歌とする説

など、興味深い説がいくつもあります。ほかにもいくつか都市伝説的なものも持った童謡があります。

■南町の山角天神社

神奈川県神社庁の情報はこちら。

御神祭は菅原道真。

歴史として、創業時代は古く不明とのことですが、室町時代の北條氏まで遡れるそうです。

石碑には小田原市のマークが刻まれており、観光資源的な扱いがする。

■国府津の菅原神社

神奈川県神社庁の情報はこちら。

御神祭は、菅原道真並びに天照皇大神、大山津見命、木花咲耶姫命、誉田別命が合祀されているようです。

Wikipediaの情報によると、歴史は平安時代である正暦5年(994年)まで遡れるそうで、天神社よりこちらの方が歴史も古く規模も大きい様子。こちらは観光地ではないので、地元の皆さんの鎮守の様子。

■菅原道真公

Wikipediaの情報によると、

  • 845年8月1日誕生〜903年3月26日死没(享年59歳)
  • 平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家
  • 晩年は、権力抗争のため左遷された地で死去
  • 道真の死後、930年に宮殿が落雷を受け朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)
  • それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御
  • 道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮において神として祀られるようになった

ということで、陰陽師の世界のような。。。

■考察

学問の神様としての菅原道真公を祀る天神様は日本各地にあります。今から36年前に卒業した学校のすぐ横に、「関東五大天神 桐生天満宮」がありました。改めて思い出してみると立派な神社でした。

各地にたくさんの天神様があるのに、なぜ「通りゃんせ」の舞台とされる天神様が3ヶ所、そのうちの2ヶ所が小田原なんでしょう。

三芳野神社(川越)

三芳野神社は川越城の鎮守であり、神社が川越城内にあったため、一般の人の参詣はなかなか難しく、その様子が歌われているとの説です。

でもセキュリティーの観点で考えると、城内に入る時の方が「よいよい」で、出る時が「こわい=北関東の方言で、しんどい・疲れる」のは逆な気がします。

こちらに関する議論は川越の方にお任せしましょう。

山角天神社
江戸後期(Ref. 小田原プラットフォーム

江戸時代後期のGoogleMapsによると、天神社は現在と同じ場所、東海道から1本北の路地に入り、階段を登った先にあります。子供たちは神社に続く階段の下で、この歌を歌ったのでしょう。

北関東の昔の人は「疲れる」ことを「こわい」と言います。小田原民はどうなんでしょう。もしそうだとすると、やはり神社へ行きは階段を登るので「こわい」、帰りは階段を降りるので「よいよい」のはず。

Kanatecは上り階段は大嫌いなので、絶対そのように作詞します。それに行きと帰りの歌詞を逆にすると符割がややこしくなり、歌いにくい。

また「こわい」が「怖い」と考えた場合、にぎやかな東海道の宿場町のすぐ裏手で、小さな山のその先には小田原城があるので、「寂れていて怖い」印象はないように思います。

東海道から見た天神社

ただ、現在の二宮神社側から登って行き天神社の裏に出る道はかなり細道感があるが、やはり行きが上りになる。

菅原神社
大正初期(Ref. 小田原プラットフォーム

さすがに江戸時代後期のGoogleMapsは残されてないので、明治初期の地図を見ると、集落はあったようです。その後鉄道が開通したことで、明治後半から国府津は一気に栄えることになりますが、集落のはずれにある江戸時代の菅原神社周辺は「寂れていて怖い」感じだったことでしょう。東海道の岡交差点から菅原神社までの道は、今でも十分細道感がある昔からの道路である感じ。

七五三のお前りの時期が現在と同じ11月だとすると、夕方日が暮れるのはかなり早いので、帰りが真っ暗になり「行きはよいよい、帰りはこわい(怖い)」になりそう。

なお、「発祥の地コレクション」というサイトでは菅原神社説を推しており、歌詞の細道は箱根の関所を抜ける山道を歌っているとの説です。(だったら天神社でもいいような気も・・・)

高さ制限3.7M、幅クルマ1台分の細道

また最新の説では、1293年(鎌倉時代)に相模トラフから神社真下の国府津断層を震源とする鎌倉大地震があったとされますので、江戸時代にもその被害の言い伝えは残っていることでしょう。さらに夜になると、国府津の山からいろんな野生動物も降りてきて、目だけ光ってそう。

■まとめ

歌詞の内容から想像すると、国府津の菅原神社の状況に近いように思いました。

この歌ができた江戸時代、小田原宿を起点に「通りゃんせ」が国内に広がり、勘違いもしくは観光資源として宿場近くにあった天神社がその舞台とされた・・・と考えてはどうでしょう? 

ところで、この手の作者不詳の無形文化に対し、なぜ「小田原もしくは川越が最初」と主張できるのでしょう?当時の記録などで、「〇〇年頃、この辺りで子供たちが歌っていた」という証拠はあっても、「記録がない他の地域では歌われていない」とは言えないです。

さすがに明治以降になれば「〇〇年、□□作」と記録が残るのでしょうが、江戸時代の「作者不詳のわらべうた」では。。。

ネットにもこれを取り上げたブログ等がありますが、どうもソースが同じらしく(他人のことは言えない、すみません)、ここに取り上げた以上の根拠が書かれてないが、Web上の情報件数は川越の方が多い感じ。「言ったもの勝ち」なら川越説が断然優勢。

観光資源の一つだとすると、小田原市や観光協会のWebサイトに書いてありそうだが、それも見つからない。どうも「発祥の地」を名乗る根拠が見つからない。なぜだろう?

なお、

  • 「三芳野神社に関する解釈」は川越の方に委ねる
  • 「神隠し伝説、人柱・生贄、埋蔵金伝説に関連する歌」という説は、ノストラダムスの予言のように、みなさん自由に解釈して楽しんでください
  • 「関西での被差別部落に関連する歌とする解釈」は「後付け」のような気がするが、関東ではこの議論はなく、これの扱いは関西の方に委ねる(知識がないので深入りしない)