暗渠追跡最終章 穴部用水

鬼柳堰に次ぐ小田原No.3(=根拠不明)の用水路「穴部用水」。(そういえば、小田原用水や荻窪用水の序列は?すっかり忘れていた。)

なぜ酒匂堰や鬼柳堰は「堰」なのに、穴部用水や小田原用水、荻窪用水は「用水」と呼ぶのか?作られた時期が違う?管理者が違う?何が違うのか気になる。

■便利なGoogleマイマップにて

まずは概要をGoogleマイマップにてご紹介。

詳細はGoogleマイマップにお任せし、特に気になったポイントをご紹介。

■取水点(堤防の外側)

田植え直後の田んぼに大量の水を送っている時期のためか、水量がかなり多く、水路のキャパ的に目一杯な感じ。

もし大雨で狩川が増水した際は、取水用の水門を閉めればいいので、これ以上水位が上がり、大雄山線の線路が水没することはないのでしょう。

■飯田岡界隈

(参考資料)

道路側は二重のフェンスで囲って転落防止しているが、住宅側にフェンスを設置するかは住民の自由意志のよう。

この時期だと水量が多いので、落ちるとかなり危険な感じ。小さなお子さんや酔っ払いの居る家は要注意のようです。

そういえば水路を回ってみて、酒匂堰や鬼柳堰でよくみた「神奈川県 農業用水路 用水路に入らない」看板を1枚もみてません。穴部用水は県の管轄ではないのかも?だとすると、名称の「堰」と「用水」の使い分けの理由のヒントかも?

■水源地入口交差点付近

都市計画道路「穴部国府津線」と県道74号 小田原山北線の合流点です。ここから螢田のヤオマサの交差点に繋がるようです。

途中には大雄山線〜狩川〜小田急線の3つの難所のほか、泉中学校の校庭もルートに掛そうなので、いつ完成することやら。

この付近で、穴部用水は県道74号線の下を潜り西側に出ます。

■水路トンネル

水源地入口交差点から穴部駅の手前くらいまでは、県道74号のすぐ西側は崖になって、一段高いところに旧道が通ってます。

水路はこの旧道の下を、暗渠ではなく地下トンネルで抜けている感じです。なぜトンネルを掘ってまで、ここを通したのか?

■石垣

河原にある丸い自然石を積み上げた見事な石垣を発見。石の表面の状態からして、結構新しい石垣のようです。

ネットで調べてみると、この石垣の形式は「玉石積み」と言うそうで、横須賀城(遠江国城東郡横須賀に戦国時代から江戸時代にあった日本の城)の石垣がこの形式だそうです。

さてこの上の土地、今は更地のようですが、今後家が建つのでしょうか?

■タイムスリップ風

白山中学校の裏門につながる古い石橋。門柱もいい感じの石柱なので、これで校舎がもっと古いものなら、「この橋を渡るとタイムスリップ」しそうな感じになります。

なお白山中学校は、2004年5月8日全国一斉公開の「世界の中心で、愛をさけぶ」で、長澤まさみさんが体育館でピアノを弾くシーンのロケ地です。

■トンガリ

寿町付近は、元は甲州道(=扇町商店街)に沿って水路があったそうですが、流路を変更し、今は富士フイルムやアマゾン(元 GSユアサのバッテリー工場)の敷地境界と住宅街の中を流れています。

この建物の見事なトンガリ具合、目測で30°以下のようで、「測れ!トンガリ計測部」のランキングでもトップクラスだと思います。

■放流点はどこか?

富士フイルムの西側のふじみ食堂付近で、水路が西方向と南方向に分岐します。

放流点候補(1) 扇町2丁目付近

西方向に分かれた水路は、井細田大橋のすぐ下流で山王川に合流します。こちらは流路も広く水量もかなりあります。

放流点候補(2) 東町1丁目付近

南方向に分岐した水路は、新幹線や東海道線の下を抜けてすぐに暗渠化し、町田小学校の東側を抜けて行きます。

栄橋すぐ下流で山王川に合流するのですが、その手前が一部開渠化されてます。写真撮影した7/17時点では水は流れていませんでした。

■歴史を調べてみる

ネットで調べる限り、ほんとんど情報がありません。唯一見つけたのは、「宮内太治兵衛物語」という郷土の歴史研究家(?)が書いた文書だけで、これによると;

酒匂川、久野川の水末地帯の網一色、山王原、中島の村々は長いこと米作の灌漑用水路 は悲願であった。この水末の村々と井細田、多古村など合わせて10村の用水として開削された。
取水口は穴部にとり、山寄りに掘削し、甲州街道を川筋として、井細田村より町田村を経て網一 色にて酒匂川に合流させた。開削の年代ははっきりしない。しかし、寛文年間(1661~1672)の開発工事であったと思われる。

ポイントは以下の2点。

  1. 山寄りに開削
  2. 網一色付近にて酒匂川に合流
  3. 1661〜1672年頃の開削

No.1 山寄りに開削 =水源地入口交差点から穴部駅の手前の水路トンネル

水は高いところから低いところに流れるのは今も昔も同じなので、極力標高を下げないで最低限の勾配で送りたい。

このため、水源地入口交差点から穴部駅の手前くらいまでは、もしここで東側の田んぼ方面に水路を通すと、その先に水が送れないので、県道74号のすぐ西側の高台の旧道の地下をトンネルで抜けた?

地形の傾斜を見ると、県道を通す際に山側の一部を削って崖にした感じがします。もしそうだとすると、開削当時の平地を通そうとすると、かなり下がってしまうため、この部分は地下の水路トンネルにした?

県道が通る前、この辺りはどんな感じだったのでしょうか?

歴史的農業環境閲覧(明治初期〜中期)

明治初期〜中期の様子を見て見ましょう。

黄色で囲ったあたりが該当する箇所ですが、道路と水路が重なり、線がモアモアしていてよくわかりません。言えることは、山際のギリギリの場所に水路を引いていること。

江戸時代の開削時点で水路トンネルにしたのではなく、県道建設時に水路を動かしたのか?

No.2 網一色付近にて酒匂川に合流放流点は山王川ではない

歴史的農業環境閲覧(明治初期〜中期)

「網一色付近の酒匂川に放流」で気になるのは、小田原東高校近くにある古い石橋。ここは旧東海道にあたる場所です。

前述の歴史研究レポートに「網一色、山王原、中島の村々は長いこと米作の灌漑用水路 は悲願」と書いてあるので、井細田大橋や栄橋付近で山王川に放流したらダメですよね。

歴史的農業環境閲覧(明治初期〜中期)を見ると、網一色村に何本かの水路が見えるので、現地調査してみよう!・・・なんて決して思いません。

この辺りは普段からの徘徊範囲であり、状況はよく知ってます。雨水排水路と思われる暗渠が多数、所々に小さな開渠も多数あり、流路を追跡して「穴部用水」の本流を探るのは無理です。

No.3 1661〜1672頃の開削

酒匂堰の開削は1596~1615年で、穴部用水の開削より50年くらい前ですが、それで「堰」と「用水」の命名の違いの理由になるのかは不明です。なんたって、小田原用水はもっと昔の1545年に作られてます。

甲斐の国では、灌漑用水路を「堰」と呼んでおり、その技術や影響が甲州道経由で小田原に伝わったので、小田原でも「堰」と呼ぶ説がありますが、甲州道に沿って通した穴部用水は「用水」とはなぜでしょう。

■まとめ

暗渠追跡はこれを持って最終章とします。企画自体に無理がありました。小田原市の建設部道水路整備課には、詳細な暗渠マップがあるんでしょうね。一度閲覧したい!