昔から、戦争は勝利した側に都合よく歴史解釈が可能です。
例えば、豊臣方から見れば「小田原征伐」ですが、北條方を支持する小田原市の見解は「小田原合戦」であり、征伐される理由などないと明確な意思表示が感じられます。
もし、徳川家康軍と伊達政宗軍が北條方に付き、豊臣方を箱根の西に押し返して北條方が勝っていたら、江戸時代ではなく「小田原時代」が1867年の大政奉還まで続いたかもしれません。
もしそうなっていったら、現在の小田原の不動産価格は高騰し、Kanatecが小田原に住むのは不可能で、今頃は「都心 小田原に新幹線で通勤圏」のアキバの「東京タイムズタワー」で田舎暮らししていたことでしょう。
■1590年の小田原
第一次防衛戦である周辺地域の支城を次々と落とされ、本拠地の周辺をこれだけの有名どころに囲まれてしまうと、これは結構大変。(注:埼玉県行田市の忍城(おしじょう)だけは、豊臣方の水攻めに最後まで耐え抜いた)
双方の兵力は、豊臣方は22万人、北條方は5.6万人と言われており、現在の小田原の人口19.4万人よりはるかに多い軍勢に囲まれている!
当時の小田原城は、食住すべて総構で囲って防御しており、長期間の籠城が可能な造り。いろいろな歴史情報でも、小田原城においては大きな戦闘はなく、膠着した状況が続いたらしい。
時間軸をもう少し詳細に書くと;
- 天正17年(1589)11月 :沼田の揉め事をきっかけに、秀吉が北條に宣戦を布告
- 天正18年(1590)3月1日 :秀吉が京都の聚楽第を出陣
- 3月29日 :山中城落城
- 4月1日 :足柄城落城
- 秀吉、小田原城を見下ろす笠懸山に陣城を築き、兵糧攻め開始
- 6月26日 :突如、一夜城が完成!なんて訳ないと追いますけど・・・
- 7月5日 :北條氏直は秀吉に降伏
GoogleMapで総構を一回り;
それでは、今流行りの「小田原総構一周=オダソウイチ」に出発します。自転車での走行なので、多少外郭から逸れますが、ほぼほぼオダソウイチです。
注)お城や東海道の街道筋を含め、江戸時代の遺構や情報看板が多く残っており、戦国時代まで遡って当時を想像するのはかなり難しい。
一番の例はお城の場所と形。戦国時代/北條氏の初期の頃、城のあった場所は現在の天守よりも北側(小田原高校寄り)で、戦国時代の城は戦さに特化したも。その後改修を重ね、江戸時代の大久保氏の時代になり、石垣+天守閣」の今の小田原城に近い形になったと言われる。(Ref. 難攻不落の小田原城)
観光の便宜上、優美な江戸時代の大久保氏若しくはその後の稲葉氏の居城を模し、1960年(昭和35年)に完成した現在のお城をシンボルにしている。その割には、当時の雇われ城主の大久保氏や稲葉氏は、観光的には取り上げられることもない。
■謎(1) 一夜城伝説
いくら林の影でこっそり工事してたとしても、3ヶ月近い間、北條方の誰一人”一夜城”の建設工事に気づかなかったことはないでしょう。
最も見通しがいい「小田原城 三の丸外郭新堀土塁」から一夜城まで2.3km程度、見張り番のほか、斥候部隊や地元民の情報提供はあるでしょうから、3ヶ月の間全く気づかないとは思えないです。
これは勝利した豊臣方が「盛ったお話」でしょうね。ただし、書き割り説はともかく3ヶ月掛からず新しいスタイルの石垣付きで目立つ天守付きの城を作ったのは事実なので、圧倒的な勢力の差を見せつける心理作戦として成功でしょう。
■謎(2) 豊臣方の兵站
現在の小田原市の人口を超える22万人の豊臣方の武士や兵士が、3ヶ月どうやって生活していたか?”22万人”というのは勝利した側が後で盛った人数なのか、ピーク人数なのか、延人数なのか・・・
昔の人は粗食で少食だったとしても、今で言うところの「兵站(へいたん、Logistics)」がどうなんていたのか?豊臣方が小田原周辺で現地調達する前に、北條方が買い漁っていたのでは?それとも陸上自衛隊のように、自己完結型で全て持ち込み?
豊臣方22万人のうち、相当数のロジ部隊がいたんでしょうね。
■謎(3) 徳川の陣地
場所は小田原大橋交番前交差点の南西側、今の地名だと寿町4丁目、昔の地名やバス停は「今井」になります。この説明看板によると徳川の軍勢は3万とのことで、この陣場を中心に東町から寿町一帯に3ヶ月近く駐屯したようです。(注:大井町の人口は1.7万人、松田町の人口は1.1万人、合計2.8万人を上回る人数。)
さすがに陣営トップの家康さんはこの地の豪族の家に滞在していたようですが、ほかの武士や兵隊さんはどうしていたのか?3万の軍勢が3ヶ月駐屯した際の、食料などの兵站のほか、寝る場所、お風呂、トイレなどどうしていたんでしょう?
一般には当時の地元豪族の屋敷やお寺を接収して駐屯したそうですが、屋内で寝泊まりできるのは偉い人だけでしょう。
■謎(4) なぜ北條五代の物語が大河ドラマにならない?
ここ数年で戦国時代に絡んだ大河ドラマもいくつかありましたが、今のところ北條五代がテーマになる気配はありません。なぜでしょう?
そもそも大河ドラマは全く見てないので個人的にはどうでもいいのですが、ドラマの舞台になると観光収入が相当増えるそうで、市や観光協会としては頑張って誘致しているようです。
個人的には、「火災調査官 紅蓮次郎シリーズ」が終了してしまった方が残念でならない。
■謎(5) 渋取口はどこ?
我が家のご近所に「渋取口」と言う名前の総構の虎口(城などの防御機能を加えた出入口)があったのですが、その場所がよくわかりません。場所を特定するヒントは;
- 現在は暗渠となっている渋取川のどこかに橋がかかっていた可能性が高い
- 北には井細田口が、南には山王口があるので、その中間のどこか
- 住宅街の奥に、「渋取」と書かれた旧地名の記念碑がある
- 井細田口、山王口並びに箱根口同様、敵の侵攻に備え喰違(くいちがい)」の道路形状になっている可能性がある
江戸時代の前半と後半の絵地図があるので、ご近所の様子を眺めてみましょう。
1644年頃 相模国小田原城絵図(Ref. 小田原プラットフォーム)
左上の井細田口から、右下の山王口に流れるのが渋取川です。現在はほぼ暗渠化されてますが、流れている場所は大きく変わってないと思います。
1644年江戸時代前半には、すでに渋取口は廃止されているのか、接続する道も書かれていません。
1860年頃 小田原城絵図「文久図」(Ref. 小田原プラットフォーム)
やはり、井細田口から山王口の間には、それらしき出入り口は書かれてません。ただ気になるのは、渋取川の流れが南から東に屈曲する場所付近、現在は「くまもとらーめんブッダガヤ」前に小さな橋がかかっているように見えます。
現在のブッダガヤ前、渋取川の暗渠と橋の欄干の様子。
ここから「広小路南交差点(翁庵の北)」までは、住宅街の隙間を開渠で流れている模様。(私有地に入らないと確認できない)
2022.12.04 追加調査
最近できた「広小路南交差点(翁庵の北)」には、渋取川が開渠になって流れが見える部分があります。そこに渋取川の歴史を解説する看板があり、これによると渋取口は中町3丁目の小田原市民葬祭〜箱根観光自動車(タクシー会社)の間くらいのようです。
【看板の解説を抜粋】
総構の東部、「井細田口」から「山王口」にかけては、天然の湿地帯に堀を掘り、その内側に土塁を構築していたと考えられます。
この地域は小字「渋取」と呼ばれ、この一帯は堀の跡地ではないかと考えられています。
この説明板の裏にある渋取川は江戸時代に堀を埋めた水田の排水路と思われ、江戸時代の絵図・文久図から、堀でもあったことがわかります。渋取川より南西側は総構の内側と想定されます。
(最近はずっと在宅勤務ですが、)Kanatecは20年間渋取口を出入りして通勤していたようです。
■謎(6) 篠曲輪(ささくるわ)の戦い
徳川軍で一番南側(海側)に陣取った、女城主直虎=柴咲コウに育てられた井伊直政の軍勢は、北條方の「篠曲輪」に夜襲をかけます。篠曲輪はなんと我が家から徒歩数分のご近所で、ここで小田原合戦にて唯一と言われる大規模な戦闘が行われました。
曲輪(くるわ)とは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。
篠曲輪は、総構の東、山王口の外側、浜町4丁目の現在の山王神社付近と言われてます。山王神社はもとは山王川の東側にあったようですが、暴浪により破壊され、江戸時代初期に現在地に移ったそうです。(Ref. 散歩日和)
篠曲輪は、東は山王川、北はその支流の川(渋取川の分流?)、そして西側を山王口の堀(渋取川の本流?)と、3方を川や堀に囲まれた出丸で、徳川軍勢に対する前線基地となりました。
総構内部から篠曲輪には脆弱な木橋が掛かっており、これに関する家康と井伊直政のやりとりに関する逸話も残ってますが、これも勝利した側が後で盛って書いた話でしょうか?
夜襲の結果、篠曲輪を井伊直政の陣営が落としたのは間違いなのですが、その後総構の内部まで侵攻できたかどうかは複数の説があるようです。またこの戦での戦死者は両軍合わせて千名を超えたとの説もあります。
■まとめ
小田原合戦は、本丸の小田原城に関しては籠城の末の無血開城と理解してましたが、我が家のご近所で篠曲輪の戦いがあったとは。。。
現在でも山王神社の一帯だけ、周辺と植生や空気感が異なるので、430年前の激しい戦いの”何か”があるのかもしれない。
現在の山王神社の西隣にある宗福寺は、永禄2年(1559年卒)が開山で篠曲輪の戦いの9年後であり、こちらも関係があるのかもしれない。調べてみると「永禄年間の開創、当初は海辺近くにあったが毎年波浪の被害をうけるので、のち現地に移った」とあるので、山王神社と同様に後になって篠曲輪跡に移ってきたようです。(Ref. 「猫の足あと」さん)