ニノミヤ・タカノリさんを訪ねて

世の中の皆さん、「ソントクさん」とか「キンジロウさん」さんとしてご存じの「二宮尊徳さん」です。
「尊徳さん」の正しい読みは「タカノリさん」だそうです。

江戸時代の身分制度における「農」のはずですが、肖像画を見ると刀2本挿しで、「二宮」という苗字もあります。農耕開拓の功績を認められて、苗字帯刀を許されたとのことです。

没後は、神社の御祭神にまで大出世で、これぞOdawaran Dreamです。

■もう一つ知った基本的なこと

Kanatecは今は小田原市民ですが、35年ほど前までは栃木県民でした。

栃木県民は、尊徳(タカノリ)さんについて郷土の英雄のように小学校で習うので、なんの疑問もなく栃木の人と思ってました。(今から50年ほど前)

ところが小田原に引っ越してきた際、市内あちこちに尊徳さんを讃えるものがあるので、「軽い疑問」を感じながら暫く暮らしていました。(今から21年前)

そして事実を知りました!

しばらく経った後、栢山の尊徳記念館を訪ね、やっと事実を知ることができました。(今から19年前)

尊徳さんは栢山村の出身で、幼い頃から勤勉に努力した結果、若い頃に小田原藩にその優れた能力を認められ、あれこれ小田原周辺で活躍した後、当時小田原藩の領地だった栃木県真岡市周辺の復興を命じられたそうです。(栃木県民が教わるのは、ここからの人生後半部分)

赴任後は栃木県であれこれ色々頑張ってくれ、その最期は日光で息を引き取り、今は旧 今市(現 日光市)の如来寺で眠ってます。

このため栃木県民は、「郷土のために尽くした偉人」として尊徳さん讃えている訳ですね。納得です。当たり前ですが、我が小学校にも「薪を背負って歩きながら書物を読む金次郎さん」の石像がありました。

もう一つ、栃木県には「二宮町」と言う自治体がありましたが、現在は「真岡市」に編入されて消滅してしまいました。この「二宮」と言う地名は尊徳さんにちなんだものだそうです。(神奈川県二宮町の町名の由来は知りません。)

謎が解けた!

これで、尊徳さんに関わるKanatecの個人的な謎(=無知)が解けました。Kanatecは、偶然尊徳さんの逆のルートで引っ越ししてきた訳です。これは何かのご縁、尊徳さんについてちょっとだけ掘り下げてみましょう。

■歴史を確認

「江戸時代の人」程度の知識しかないので、時代背景や人生の転機となった酒匂川関連を含め、簡単に年表にまとめてみました。尊徳さん個人の詳細な年表は二宮報徳神社のWebを参照してください。

年代出来事
1609(慶長14)プロジェクトZ
小田原藩主の大久保忠世・忠隣親子が2代にわたり、酒匂川治水のため、大口付近の大改修を完成。
最後の大口堤防で、平野部に出た川の流れを現在の状態に固定。
1707(宝永4)富士山 宝永の噴火により、大量の火山灰が酒匂川に流入し、川床が上昇。その後氾濫が頻発。
1725(享保10)プロジェクトX
暴れん坊将軍 吉宗(松平健さん)から、江戸南町奉行 大岡越前(加藤剛さん)に対し、酒匂川の大口付近の復旧工事を指示、1726文明堤完成。
(残念ながら、この後も断続的に酒匂川が氾濫し被害発生)
1787(天明7)二宮金次郎、7月23日に誕生
1791(寛政3)金次郎5歳の8月5日、大暴風雨で酒匂川が決壊し家や田の大半が流失、苦難の始まり
(その後、苦難と勤勉と大活躍の人生を歩む)
1856(安政3)10月20日、栃木県日光にて没す、70才
1858-1859安政の大獄(幕府の諸策に反対する者たちを弾圧、江戸時代末期の激動期)
1867(慶応3)大政奉還(江戸時代の終焉)

こうやって見ると;

  • 1725年のプロジェクトX(文明堤)完成以降も、酒匂川の氾濫による大きな被害が続いていたようです。
  • 尊徳さんは、その晩年まで栃木県にて大活躍された。
  • 尊徳さん、もう少しだけ後の時代に生まれていれば、明治の近代化にも貢献されたかも。そうしたら、箱根板橋あたりに立派な別荘が持てたことでしょう。
  • 大河ドラマになぜならないのか?小田原市として、北條五代と二宮尊徳さんをNHKに推しているらしい。大河ドラマは無理でも、酒匂川の治水事業を絡めれば、尊徳さんネタは十分ブラタモリにいけそうだが、残念ながら地学ネタが今ひとつ弱そう。

■薪を背負って歩きながら書物を読む金次郎さんの像

戦前〜戦中教育の基本の一つ、親孝行と勤勉さの象徴だった「薪を背負って歩きながら書物を読む金次郎さん」、戦後教育のある時期から「不適切な像」になって、その多くが撤去されてしまったようです。その理由は;

  • 歩きながら本を読むのは危険(これを真似して、交通事故に遭った小学生がいたらしい)
  • 児童労働の象徴である(人権保護団体が黙ってない)

ほとんど「ドリフの全員集合はけしからん」と似た話で、ある種の人々の主張が通ってしまったようです

そのため最近では、薪の積まれた背負子を傍に置き、腰をかけて本を読む金次郎さん像ができたようです。これなら歩きながら本を読んでないし、薪は背負ってないので児童労働にならない。。。

苦肉の策、ある種の人々に簡単には屈することなく、みなさん色々考えてます。また報徳二宮神社では、”やむを得ない事情”で設置できなくなった二宮金次郎像を引き受けてくれているそうです。個人的には、小さい金次郎さんなら、ベランダにお一人お迎えしたいです。

昨今、小学校の統廃合などやむを得ないご事情で、二宮金次郎像の行き場がなくなってしまうことがあるようです。
報徳二宮神社及び報徳博物館では、そうした二宮金次郎像をお引き受けいたします。
みなさまの思い出や歴史のある大切な像を、所蔵・展示等させていただきます。
二宮報徳神社Webより引用
(ネット上の借り物画像)
(ネット上の借り物画像)

■小田原市内には、どんな名所旧跡があるのだろう?

学校の敷地内は確認しようがないので対象から外すとして、一般人が見学可能な二宮尊徳さん関連の名所旧跡って、どのくらいあるんでしょうね。

小田原駅コンコース東口とか、城内の報徳二宮神社や栢山の尊徳記念館はよく知ってますが、最近あれこれ観光スポットも増えてきたので、ここはコンプリートを目指してみましょう。

なお範囲を広げるとキリがないので、まずは「小田原市内」に限定します。

まずはネット調査から

Googleマップを使い、「二宮金次郎」または「二宮尊徳」で関連スポットを抽出し、Googleマイマップにその位置を貼り付けてみました。

こうしておくと、後々のデータ整理や、自転車で現地調査する際のナビの目的地設定が楽になります。

こうやってみると、観光客向けの小田原城周辺と生まれ故郷の栢山村に集中しています。

■二宮尊徳さん写真集

毎度恒例、運動不足解消のため、自転車にて市内の二宮尊徳さんの名所旧跡を訪ねてみました。詳細な場所については、上記のGoogleマップを参照してください。

なお、偉人になる前、それも江戸時代に、とっても出来がいい子とはいえ、農家のせがれの行動記録が正確に残っていると考えるのは無理があります。それぞれの逸話には、教育観点での脚色や創作、その他諸説があるとご理解の上、おおらかな気持ちでご覧ください。

一説には、尊徳さん本人は幼少期のことはほとんど語ることがなく、周りの方が地元関係者に取材して、現在に残る数々の逸話が完成した模様です。よほど謙虚な方なのか、思い出したくない苦労の連続だったのか、それとも明治政府が進めた国民向けの思想教育なのか。。。

いずれにせよ、とても凄い方であったことは間違いないです。

小田原駅東口2Fデッキ出口

金次郎さんの像で、「薪+書物」の基本パターンです。
この像を見るには、駅東口のペデストリアンデッキからコンコースに入っていかないとダメなので、見落としている人がいるかもしれせん。

最近できた観光施設「ミナカ小田原」内

夫婦像で、映画「二宮金次郎」とのタイアップっぽい感じです。
2020年12月1日の除幕式には、金次郎役の合田雅吏(小田原高卒)さん、なみ役の田中美里さんも来られたようです。

報徳二宮神社

明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。 (報徳二宮神社Webより引用)

こちらの神社は、一般的な神社業務のほか、結構相談室と結婚式場、レストランやカフェなど手広く事業展開する商売上手で、まるで「神社界の鈴廣さん」のようです。
一時期はインバウンド相手の観光事業も始めてましたが、新型コロナウィルスのおかげで、こちらはお休み中のようです。

さすが総本社 報徳二宮神社、金次郎さんの「薪+書物」の基本パターンと、お仕事中の尊徳さんの双方を見ることができます。
神社の建物の奥には、これとは別の御本尊様がいるのでしょうか?

最近できた「きんじろうカフェ」

二宮報徳神社の境内に、いつの間にかおしゃれなカフェができてました。こちらの神社、観光関連にとても力を入れてます。

報徳博物館

正座してお勉強する金次郎さんです。交通事故に遭う心配も、児童労働の疑いもありません。
二宮報徳神社のすぐそばになります。まだ中に入ったことはありませんが、尊徳さんの実績と思想・方法論をご紹介する博物館だそうです。

最近できた「箱根口ガレージ 報徳広場」

金次郎さんの像で、「薪+書物」の基本パターンです。
こちらも最近国道1号線沿いに最近できた観光施設で、昔市内を走っていた路面電車が目印です。
東京オリンピックにあわせ、多くのインバウンドに期待し、市内にいくつか観光施設が増えました。ところが、新型コロナウィルスのおかげで、施設側も観光客も、みなさん大変です。

尊徳記念館

ここ栢山は、尊徳の生誕の地。二宮尊徳生家に隣接する記念館は、彼の生涯や、その教えを学ぶ展示室のほか、会議室や宿泊室を備え、講座、サークル活動等の生涯学習活動の場としてご利用いただけます。  (小田原市Webより引用

この施設は、真珠で有名なミキモトの創業者で「海の尊徳」と呼ばれる 御木本幸吉さんが設立に貢献されたようです。

二宮尊徳 油菜栽培地跡

仙了川にかかる小さな橋「油菜橋」の横にあります。

尊徳は16歳から18歳までを伯父の万兵衛の所で過ごすことになりました。万兵衛は、彼が立派な百姓になれるよう、厳しくしつけました。夜遅く本を読んでいるのを油がもったいないと叱ったのも、そのためです。(※1)
しかし、尊徳の勉強好きは変わらず、自分で菜種を植えて油を手に入れるなどして読書を続けました。
(小田原市Web引用

※1:諸説あります。しつけではなく、単に油の無駄遣いがもったいないと怒っただけと思いますけど。(個人の意見)

捨苗栽培地跡

報徳記念館のすぐ近く、県道720号線からちょっと西に入ったところにあります。
ベンチが置かれた小さな広場になっており、隣には用水路があります。
このあたりはきれいな水の流れる用水路や小川が多くて素敵です。

積小為大(せきしょういだい)
たった一握りの菜種から7〜8升の取り入れになった経験や、捨て苗を荒地で丹精こめて育てて、秋には一俵の籾を収穫したことにより、小さな努力の積み重ねが大切との教えだそうです。

二宮先生総本家邸跡

水路と生垣に囲まれ、とても素敵な路地沿いにあるアパートの敷地に、金次郎さんの像と石碑が建ってます。
ところが、ここから少々離れた尊徳記念館の隣には、移築・復元された生家があります。総本家と生家は別ということ?
ところでこの金次郎さん、とてもスタイルが良くないですか?一説には、とても身長が高く、体格も良かったといわれてます。

二宮尊徳 松苗植栽地跡

報徳橋の下流側、酒匂川右岸の堤から降りてすぐのところに、石碑と小田原市による説明看板があります。
この場所は、病弱な父に代わり、松苗200本を買い、酒匂川堤に備えたとされる場所です。
酒匂川の堤の松並木は、単なる植栽ではなく、川が氾濫した時の対策用資材です。

二宮金次郎像

新鮮館おだわらの敷地内にあります。
右から、金次郎さん、尊徳さんと、銘文を刻んだ石碑です。石碑には「譲って損なく、奪って益なし」と書いてあります。
すぐ横の国道255線はよく通るのですが、ここに金次郎さんと尊徳さんの像があることは知りませんした。
こちらの金次郎さんは妙に幼児体型で、こんな幼児に薪を背負わせると、人権保護団体が黙ってなさそうです。
(お地蔵さんに近いジオメトリーで作られている感じの金次郎さんですね。)

その他小田原市近隣(未訪問のため、写真は借り物です)

Googleストリートビューより

(未訪問)
JR御殿場線の松田駅の駅前に、「二宮尊徳翁誕生地栢山道 約一里半」という石碑と共に、金次郎さんの像で、「薪+書物」の基本パターンです。

Googleストリートビューより

南足柄市の三竹の狭い山道沿いに、石に腰掛けた金次郎さんの像で、「薪+書物」のバリエーション・パターンです。
こちらは栢山村の入会地で、金次郎さんはここまで薪を取りにきたそうです。
山の斜面に設置された像で、薄暗くなってから見ると、ちょっと心臓に悪い感じです。