小田原最後の未開拓の地(注1)「中村川渓谷(仮称)」探検に先立ち地図調査していたところ、小田原と二宮の双方に山西及び川匂という町名があるのを発見。国境線を引く際に、昔からある集落が、不幸にもベルリンのように東西に分断されてしまったのか?
注1:決して「未開の地」ではありません。
今まで特に用事がなくて行ったことのない「未開拓の地」を訪問する企画です。
■まずは場所を確認
この辺は、縁もゆかりも土地勘もないエリアで、中村川が小田原と二宮の国境と思っていましたが、小田原は中村川東側の二宮陣地にかなり深く侵攻しているエリアがあります。(後報:二宮も負けずに、小田原領内に果敢に食い込んでいます)
上記地図の中央上下(南北)に走る線が国境、赤丸で括った山西と川匂は小田原領内にあります。青丸で括った山西と川匂は二宮領で、この地図から下方(南方海側)に広がります。
■関連情報を収集
まずはネットを元に、関連情報を収集してみます。
1)小田原領
- 山西の世帯数は37で、農地の中に民家が点在する感じのエリアです。
- 川匂は山林で世帯数0です。よくある飛地の切れっ端のようです。
2)二宮領
- 「小田原北条氏鬼門守護神社」である川匂神社は、二宮領の川匂から少し外れて山西にあります。歴史的には延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている、古く大きな神社です。
- 山西の世帯数は2,520、川匂の世帯数は231です。
- 旧東海道も松屋本陣跡も山西なので、二宮領の山西と川匂が「西湘のベルリン」の中心です。
注)世帯数情報は、市または町の最新の公開情報による
■東西分断の歴史を調査
この辺の行政区に関する変遷を簡単に簡単にまとめます。(Wikipediaによる)
- 1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行により以下の町村が発足した。
小船村、中村原村、上町村、沼代村、小竹村、淘綾郡山西村(一部)が合併し、下中村になる。
前川村、羽根尾村、淘綾郡川匂村(一部)の村が合併し前羽村になる。 - 1955年(昭和30年)4月1日 下中村と前羽村が合併し、町制施行で橘町が発足。
- 1971年(昭和46年)4月1日 橘町が小田原市に編入される。
ちなみに、淘綾郡(ゆるぎぐん)は、神奈川県(相模国)にあった郡で、二宮町/大磯町/平塚市(一部)で、現在はほとんどの場所が中郡になってます。
東西分断のポイントは、1889年の淘綾郡からの一部併合で、淘綾郡山西の一部が下中村になり、その後に橘町となった後に、1971年に小田原領になったと思います。
同時期に前羽村に併合された川匂村の一部は、これは海側の何処かなので、北方にある山林の小田原領川匂とは異なると思います。
東海道沿いの二宮領の川匂と山西地区は、中村川の押切橋から橘インターまで東に侵攻しており、国道1号線を通ると、国境が複雑に入り組んでいるのがわかります。
■別件が気になる
「西湘のベルリン」山西・川匂誕生秘話は一旦ここまでにして、ちょっと気になることがあります。
Q1:新興住宅地の地名に多そうな「東ヶ丘」ですが、なぜ農地に?
道路も妙にしっかり区画整理されています。
それでは毎度おなじみ、「タイムマシーンにおねがい」してみましょう。
新幹線の工事を行なっている1960年代前半からすでに農地で、1984年以降に区画整理され道路が拡幅されている感じです。少なくともこの写真で見る限り、宅地になっている時期はないようです。
Q2:下中はなぜタマネギが名産品に?
下中タマネギの歴史
タマネギはユリ科ネギ属の植物で、中央アジアの原産といわれています。 神奈川県内でもっともタマネギの生産が多いのは小田原市です。収穫量は1,370㌧で県内の約1/4 を占めています。 小田原市でも特に下中地区でのタマネギ栽培が盛んで、その栽培の歴史は大正時代末期にまでさかのぼります。 小田原市中村原の真壁浦次郎氏ら数名により、「二宮丸」という品種のタマネギが作付けられたのが初めで、その後増加していきました。 「二宮丸」は、神奈川県農業試験場園芸部(現農業技術センター)において抽だい(ちゅうだい※)が少ない球形の系統として選抜・育成された品種で、昭和元年に発表されました。 昭和初期の農村恐慌の時には、麦に代わる換金作物として「泉州黄」とともに導入され産地化が進んだとされています。 「二宮丸」は第二次世界大戦後まで黄タマネギの主力品種として栽培されましたが、「べと病」という病気の発生により栽培が困難になりました。 栽培後期や収穫期が梅雨と重なることが病気の原因と考えられ、昭和25 年頃から生産の主体が「二宮丸」のような晩生種から早生種へと品種が変遷し、現在は「ソニック」「七宝早生7 号」「湘南レッド」などが栽培されています。 ※ 抽だい(ちゅうだい):とう立ちとも呼ばれ、温度や日長の影響で花芽を付けた茎が伸び出すこと
http://nourin-s.blogspot.com/2010/05/blog-post.html おだわら農林振興より
左のお友だち(ともたま)は蒲鉾、干物及び小田原ちょうちんで小田原に対するオマージュを、右のお友だち(モ〜たま)は牛さんで地元の畜産への誇りを示しています。
双方のお友だち共に、全身に下中のソウル・ベジタブルのタマネギをフューチャーしています。
さて、左のお友だち「ともたま」君の「とも」とはなんでしょうか?それに、双方の首に掛かっているピンク、赤、黄色及び緑色の丸いものは、もしかしてミニトマト?だったら「とまたま」君ですよね?謎だ。。。
Q3:中村川渓谷(仮称)はどうやってできた?
国府津から大磯の台地は、国府津-松田断層の活動により、断層の東側が隆起したためと理解してますが、中村川の水量だけであの規模の渓谷ができた?久野の渓谷は山王川(久野川)の浸食作用で出来上がっているようなので、まあそうなんでしょうか?
中村川は山王川(久野川)と異なり、流路の線形改善のための河川改修を受けずに自由に蛇行したまま、土手もそれほどの高さはないので、大雨の時でもそれほど増水の心配はない?
普段の大雨の時は、国府津の森戸川までは水量を注視してますが、次からは中村川もライブカメラ等で観測したいと思います。
■現地調査
別にこれと言って現地調査が必要なものはなさそうな気もしますが、元々の目的は小田原最後の未開拓の地「中村川渓谷(仮称)」探検なので、事前調査はこの辺にして、運動のため自転車で探検に出掛けてみました。
1)中村川渓谷に海側から侵入
最初に気になったポイント、しまむらストアーです。
ずっと(洋品店)ファッションセンターしまむらのグループ企業と思ってましたが、違うみたいですね。社名ロゴも微妙に違います。
2)蛇行する川と堰の様子(小田原領中村原)
「山王川と同じ規模」と思ってましたが、段丘もあり結構深く谷を刻んでます。右岸左岸どちらからも川を渡ろうとすると、かなりの傾斜を上り下りすることになりますので、大磯丘陵を削っている感じがよくわかります。
この川床ブロックの感じからすると、増水時は結構迫力ありそうな感じです。
3)川匂の湯場(二宮領山西)
1923年(大正12年)の関東大震災により、水脈が変わって湧水量が激減するまで、ここに鉱泉を沸かした温泉宿があってとても繁盛してたとか。。。
今は、100年前位にそんな賑わっていた気配は全くなく、看板を見ないとなんだかわかりません。
4)小田原領東ヶ丘
5)小田原領山西と川匂の全容
山西地区でタマネギ以外の作物を見ました。
この先の林の奥が川匂地区と思われますが、行っても何もなさそうなので、ここから見るだけにしておきます。
それにしても、どこに行ってもタマネギなのがちょっと驚きです。
■まとめ
市内の未開拓の地とその周辺に、プチ発見がまだまだいくつかありました。
我が家は結構玉ねぎの消費量が多いので、来年5月の収穫時期になったら買い出しに行ってみます。
■2022.04.30追記 玉ねぎ収穫中
昨年の11月下旬に見てきた植え付け直後の玉ねぎ畑、4月下旬に収穫の状況を見てきました。