■本日のお題
国府津駅を出てすぐ、北西に進路をとった御殿場線は、菅原神社あたりから大井町の相模金子駅までは、なんの迷いもなく一直線。
その後、なぜか相模金子駅のすぐ先で若干北寄りに進路を変え、川音川を渡って松田駅に向けてアプローチしている。
御殿場線が開通した1889年(明治22年)ころ、この沿線は平坦で地形的な障害もなく、畑や田んぼ等の農地と点在する小さな集落だったので、最短距離となる一直線に線路を敷けけたはず。
何か謎があるような気がする。
■仮説と考察
いきなり現地に行っても、130年以上前のことなんてすぐに分かるはずもなく、いくつか仮説を立て、調査対象を絞り込んでみましょう。
【仮説-1:そのまままっすぐ行けないので、相模金子駅の先で進路を北寄りに転針】
なんでまっすぐ行けないか、、、ですよね。
(1)「新松田駅を回避」説
もし国府津からまっすぐ線路を敷いた場合、現在の小田急線 新松田駅と重なってしまいますが、新松田駅は1927年(昭和2年)開業なので、御殿場線が開通した1889年には影も形もありません。
よって、「新松田駅を回避」説はありえません。
(2)「文久橋を回避」説
「かながわの橋100選」に数えられる文久橋、昭和62年に竣工とのことですが、これは現在の橋のことでしょう。
橋の名前の由来になった渡し船は江戸時代後期の話ななので、その中間の明治時代の状況はというと、、、
明治時代初期の御殿場線開通前の地図と、現代の地図を重ねてみました。位置合わせの基準がないので微妙にズレてますが、現在と同じ場所に文久橋があったように見えます。
文久橋は当時も交通の要衝と考えられますので、この説は結構アリかもしれません。
余談1 :明治初期の地図を見ると、川音川のすぐ北側で、道が東に”何か”を迂回しているように見えます。何を迂回しているんでしょう?
御殿場線開通後の大正初期(1916年)の地図を見ても、文久橋周辺には、特に回避すべきものは見当たりませんが、わずかに東に道が迂回している風に見えます。
もう一つ気になるのは、明治初期の地図では、現在の松田中学校のあたりが水色で書かれていますが、池または湿地帯があった?大正時代の地図は田んぼや針葉樹林になってます。(現在の地図にある水色の四角はプールです)
余談2 :明治ならびに大正時代の地図を見ると、川音川の堤防が複数箇所切れているように見えるのは、霞堤?・・・現在の地図と照合すると、古い堤防の名残の道も残ってそうなので、この件は余談1と併せて後日また改めて。
(3)「中沢酒造を回避」説
仮説1(1)の「新松田駅を回避」説はないとして、その先には中沢酒造さんという有名な酒蔵があります。現在の松田駅は、この酒蔵の北側に隣接してます。
東京から大阪への幹線鉄道を明治政府が国策で建設しているので、造り酒屋さんなんて簡単にどかしてしまいそうですが、創業1825年(江戸・文政8年)の歴史と、とてもおいしい松美酉(まつみどり)の方が重要だった・・・説です。
もしこれが正解だとすると、日本の鉄道ゲージを狭軌とした世紀の愚策を、大きく挽回した Good Job!と評価します。
【仮説-2:何かを回避のため転針したのではなく、もともとズレていた進行方向を相模金子駅で戻した】
仮説-1は、国府津から相模金子駅までのルートが「正」という前提です。
仮説-2は、国府津から相模金子駅までが理想の一直線ルートから西にズレており、相模金子駅で元の進路に戻したという説です。
(4)「相模金子駅が重要な基準」説
相模金子駅の位置が重要で、これが基準となり線路を若干西寄りに敷設した説は、、、ないです。
相模金子駅を知っている人なら同意すると思いますが、相模金子駅は多少位置がズレてもほぼ影響なし(=個人の感想)、そもそも戦後の1956年(昭和31年)12月に新設されたので(=史実)、御殿場線のルーティングには全く関係ありません。
(5)「曽我の集落を回避」説
もし国府津駅から現在の松田駅まで、最短距離を一直線で結ぼうとすると、線路は現在より東にズレることになります。
曽我の集落は昔からあの辺りにあり、当時の道も現在の県道72号線とほぼ一致していたと考えられますので、線路が集落に掛かってしまいます。
さすがの明治政府も、これだけ多くの集落を立ち退かせるのは適当ではないと判断し、集落が少ない西寄りに線路を敷き、相模金子駅付近で転針し、所定のルートに戻したと考えられます。
個人的にはこの説が一番妥当な気がします。
(6)「国府津-松田断層を避けた」説
県道72号線のすぐ東側の山際には、国府津-松田断層が走ってます。もし、国府津から松田まで一直線に線路を敷くと、上大井駅付近で断層と線路が重なってしまいます。
Wikipediaによると、
「国府津-松田断層は北東側隆起の逆断層と推定されている。1930年大塚彌之助により命名された。」
とあります。
御殿場線が開通したのは1889年で、ルート決定はさらにその前なので、「地質学や地震学の見地で、意図して西側に断層を避けた」というのは時系列的に難しそう。
ただし、断層特有の地形、例えば崖とか段差とか線路を敷きにくい土地の形質が顕在化している可能性はあります。断層部分がほぼ山際なので、平地側(西側)に避けて線路を敷いた結果かもしれません。
■現地調査につづく
PC上での事前の調査検討はこのくらいにして、運動を兼ねて現地調査に出かけましょう。調査は以下を中心に進めたいと思います。(思いつくまま、順不同)
- 相模金子駅北側の線路の屈曲点
- 文久橋北側、昔に道路が迂回していた理由(現在は直線)
- 中沢酒造さん、御殿場線や小田急線敷設の際、移転しているか?
- 一番気になっている、国府津-松田断層との関係
- ついでに、「警報機も遮断機もない踏切」の有無
ここから先は現地に行って考えます。
(後編に続く)