大井町山田地区の高台にそびえ立つ巨大な建造物。なぜあんな交通の便の悪い、山岳要塞のようなところに建てたのか?
■建物のご紹介
(1)歴史
みなさん、よく知っている話なので、軽く歴史をおさらい。
- 1967年10月 :「相互台」と命名した台地に、地上18階・地下2階・塔屋1階の第一生命本社(大井第一生命館)が完成。1960年に本丸が再建された小田原城に代わり、足柄平野の新しいランドマークとして君臨。
- 2008年1月 :第一生命が、大井第一生命館ビルから撤退を発表。2012年度までに大半の組織は東京に回帰し、一部はカインズ裏の新しい低層オフィスビル(新大井事業所)に移転。
- 2012年2月 :第一生命が、コーヒー・紅茶等の通信販売業「ブルックスホールディングス」に譲渡。半世紀近い歴史にピリオドが打たれたことよりご近所世界遺産に(勝手に)認定。
- 2018年4月 :神奈川県イチオシ施設 未病バレー「BIOTOPIA(ビオトピア)としてリニューアルオープン。実際訪問してみると、悪くはないですが、「この規模の施設を維持するには、公費負担が必要そう」って感じました。将来、黒岩知事が別な方に代わるとどうなることやら。。。
1967年の第一生命本社の大井移転当時は、「大会社の田園への疎開」、「理想の田園都市づくり」と大変称賛されたそうです。
東京本社からの移転人数はなんと1,650名(Ref. Wikipedia)、同年(昭和42年)の大井町の人口は7,425人(Ref. 大井町ホームページ)なので、どの程度が大井町に転居したかは不明ですが、少なくとも平日昼間の人口が20%以上増えたわけで、あれこれ大変だったと思います。
(2)国土地理院の航空写真より
1952年の様子
写真が不鮮明でわかりにくいのですが、山林ではなくすでに農地になってます。
元々テーブルトップ状の台地だったのか、農地にするため削ったのか?
1961〜1969年の様子
この写真だと、まだ工事が始まっている様子は見えません。(完成は1967年)
相当な広さの農地が、第一生命本社の建設向けに転用されたようです。
1974〜1978年の様子
すでにこの段階で、現在ショップやレストランになっている低層の建物も完成しています。
この写真だと見えてませんが、第一生命本社北側のアリーナもすでに出来上がってました。
現在の様子
建設から55年以上経て、建物自体はそのまま残っています。
後ほど述べますが、現存しているということは、建っている場所が場所なだけに、とても丈夫に造ってあるようです。
■気になること諸々
今回、調べ物をしていて気になったことがいくつかあります。
(1)大井町笑顔特派員
スベリー・マーキュリーさんが大井町笑顔特派員。
出身は大井町ではなく南足柄市です。出身高は神奈川県立小田原高等学校なので、あまり大井町に濃密な関係はなさそうです。
2018年に公開された映画『ボヘミアン・ラプソディ』以前から、フレディーのモノマネをしているそうで、先見の明あり。
(2)なぜあの場所か?
メリット
- 都心では、皇室関連以外ではあり得ない広さの土地が、安価に入手できた。
- 1964年に東海道新幹線が開通。第一生命本社移転翌年の1968年4月に東名高速が開通、大井松田インターが近いため、都心との移動には便利。(公用車や新幹線が利用可能な会社幹部向けのメリット)
- 標高差70m程度の高台であり、酒匂川や川音川が氾濫しても絶対に浸水しない。富士山が噴火し、溶岩流が足柄平野まで流れて来てもNo Problem!
- 北東側の急傾斜地は崩落のリスクがあるが、それ以外は案外地盤が丈夫に見える。(もし崖が崩壊しても、自社の建物に影響がなければOKと考えられる)
- 山岳要塞並みの守備力。
デメリット
- 活断層「国府津・松田断層」に挟まれた場所で、この台地は、断層による隆起で作られたように見える。(東側の谷地形は断層線谷?)
ビルの外部からは見えないが、内部に1981年の新耐震設計基準向けの補強工事がされているのか?それとも活断層直近に本社ビルを建築するため、初めから相当の強度を持っているのか? - 従業員の住居と、最寄駅からの交通手段の確保が難しそう。開設当時の1,650名の従業員は、どこに住んで、どうやってこの山岳要塞まで通勤してきたのか?
最寄駅は御殿場線 相模金子駅になるが、距離1.9km、高低差73mなので、徒歩ではかなりハードな感じ。(当時のサラリーマンは強靭な体力が必要だった?)
東京方面からの通勤を想定し、新松田駅から送迎バスがあったのか?
(3)敷地の南端にある謎の建物
- 第一生命本社(大井第一生命館)から南東に700mほど離れた場所に、ホテル風の大きな住居ビルがある。
- GoogleMapsで見る感じ、使用している風には見えないが、芝生などの植栽も整備されており、廃墟化もしてない不思議な状態。
- GoogleMapsでは建物の名称は書かれてないが、MapionやMapFanでは、「ブルックスホールディングス相互台寮」と書かれている。
ということは、ホテルではなく、第一生命の寮だった建物を、そのままブルックスが寮として使用しているらしい。
そもそも、この場所にあの規模のホテルを建てることはなさそうだし、第一生命の移転者1,650名には独身者や単身赴任者も多かったと想像できるので、社員寮なら住む場所と通勤手段確保の解決策になる。
窓一つが寮の一部屋だとすると、ざっと280室。開所の1967年当時なら四人部屋もあり得るので、キャパは千人超?(参考までに、1986年に大手電機メーカーの寮に強制収用されたKanatecの場合、四人部屋の3名利用でした)
この寮を、ブルックスは今どのように使用しているのだろう?
(4)団地のような建物群
現在はBIOTOPIAのオートキャンプ場になっている辺りに、団地のような建造物がありました。出来上がった時期、場所及び更地になった時期を考えると、第一生命の社宅ではないでしょうか?
ここで、久しぶりに「タイムマシーンにお願い」してみましょう。
(5)当時の移転部署=システム部門
Wikipediaによると、移転当時は「大井本社には事務部門とシステム部門を置き・・・」とあります。Kanatecもまだ第一生命の本社だった昔、「マシン室=計算機室がある」と聞いたことがあります。
移転当時の1967年頃の生命保険会社のシステム化ってどんな感じだったのでしょうか?2008年発行の「銀行業と生命保険業におけるコンピュータの導入状況に関する比較分析(渡邊 真治 2008)」という資料があったので、調べてみました。
この資料によると、1955年台(昭和30年台)にはすでに大型計算機が導入されており、大井町に移転して来た1965年(昭和40年台)は「第 1 次オンライン」時代という個人保険システムを中心に オンライン化が始まっていたそうです。
当時だと1980年代のFACOM-HITACHとか、国策での大型計算機の国産化の前なので、IBMなどの米国産計算機でしょう。深夜にバッチ処理で計算機が動き出すと、足柄平野の家庭の電灯が暗くなったとか。。。(嘘です)
父親が裕福でもないのに新し物好きだったため、Kanatec家に初めて白黒テレビが来たのは、ちょうど第一生命が大井町に移転して来た時期で、その頃には「大型計算機やオンライン」なるものが生保業界にはあったんですね。
余談ですが、当時親戚に電話をかけるために、近所の八百屋に親と一緒に出かけた記憶があります。(電話を切ると「〇〇円です!」って八百屋さんにお金をお支払い)
なんか、「超部分的な記憶」って素晴らしい、人間の脳の神秘です。
■現地調査
この猛暑の中、自転車であの坂道は登りたくないし、現地に行ったところでブルックスの本社ビルや寮の敷地に入れるはずもなく、なんか気が向かない。
ズルして車で行こうか・・・
2023.12.05追記
ズルせず自転車で行ってきました。
ビオトピアの東、山田地区の谷地形(断層線谷?)側から見た様子です。のどかな景色の中にそびえる巨大な建物が2つはご近所の世界遺産に値します。
(おわり)