現代に残る戦国時代以降の一部の遺構を除き、古代遺跡には全く知識がなく
- 都市計画道路城山多古線のトンネル工事現場あたりで遺跡調査をしていた時も、「工事が遅れて大変そう」
- 城山1丁目の個人宅の建築現場から、3世紀末(古墳時代初頭)の古墳が出た時も「個人宅敷地から遺跡が出た場合、調査費用って誰が負担するんだろう?」
- 市民病院の建設工事に合わせて発掘調査が行われているのも、「確か道路挟んで反対側のおだわら看護専門学校の工事の時も、なんか出た記憶がある」
- 久野の台地にもたくさん古墳があるらしい、真っ暗なので「夜一人では行きたくない」
こんな低レベルの感想で、これまで現地見学に行くこともありませんでした。
■小田原市立病院の建替工事にともなう遺跡調査
恥ずかしながら、「遺跡」というと3〜6世紀頃の古墳時代のイメージしかありません。
こちらの遺跡は鎌倉時代前期の御家人の建物跡とのことで13世紀のものなんですね。ちょうど現在放送中のNHK大河ドラマに合わせた発掘なので、盛り上がっているのでしょうか?
調査の結果、当時の墳墓堂など葬祭施設の可能性のある遺跡とのことで、病院建設現場的に気にする人は気にしそう。(Ref. 2022.10.10付け東京新聞Web)
さて、遺跡や古墳に全く知識のないKanatecが関心を持ったのは、遺跡を貫く鉄筋コンクリート製の基礎杭らしき構造物。初めは、鎌倉時代の建物の礎石?と思いましたが、錆びた鉄筋のようなものが飛び出しているので、現代の基礎杭で間違い無いでしょう。
Q1:RCの基礎杭はいつ頃から使われているのか?
A1:Ref. 杭基礎の変遷 – 大林組
我が国初の既製コンクリート杭は、明治43年に使用された現場締固めの角杭であり、その後昭和9年から遠心力を利用してコンクリートを均等で密実に締固め、中空円筒形とした遠心力コンクリート杭 (RC杭) が使用されるようになった。
Q2:市民病院ができる前、ここに何があった?
A2:Ref. 広報おだわらアーカイブ
広報おだわら(1956年09月25日号)に、この地に「市立伝染病隔離病舎完成す」と言う記事があり、その中に「旧 日加工業株式会社小田原工場跡地」との記述があります。なお、小田原市民病院として完成したのは、この2年後の1958年(S33)年6月です。
ネットで調べると「日加工業」と言うのはヒットせず、日加商工というゴム類を扱う会社が名称的には近いのですが、同じ会社なのかは不明です。
終戦翌年1946年の米軍撮影の航空写真には、ちょうどこのあたりに建物が立っている様子が写っています。これが当時の日加工業の工場建屋でしょうか。
Q3:文化財保護法はいつ施行された?
A3:Ref. e-Gov 文化財保護法
法律自体は1950年(S25)にできたようですが、法律の具体的な中身を定める施行令ができたのが、だいぶ後の1975年(S50)。「日加工業」の建設当時は特に調査することなく基礎杭が打たれ、その後1958年(S33)に小田原市民病院が建設されたのかもしれません。
Q4:建物解体の際、基礎杭は抜かなくていい?
A4:次の工事に支障が出る恐れがあるのと、状況次第で工事産廃の不法投棄に見做されるので、解体工事の際には基礎杭を抜くのが一般的なようです。
Q5:この後、この場所はどうなる?
今遺跡調査をしているあたりに新しい病院建屋が立ち、現在の建屋は取り壊して駐車場にするみたいです。
と言うことで、遺跡調査は今後敷地の東側に広がるみたいで色々大変ですね。
やはり、まとまりのない記事になってしまった。(おわり)