火の用心

5月26日 午後3時前のこと、黄色いスポーツプラザ神奈中のビル陰で火元は見えませんが、城山であることがわかります。あの辺は急な斜面に住宅が密集し、路地も狭いので、消火活動も大変でしょう。折からの強い南風で状況は更に悪そう。

▪️小田原って火事が多くない?

この10年位をみても、ご近所で深刻な被害を出した火事が4件発生しています。実際の発生件数がどうなのか、昔住んでいた横浜市と比較してみましょう。

横浜市(Ref. 令和4年 火災・救急概況(速報)
火災件数(令和4年)
全火災件数は638件(前年比60件減)で、過去10年では令和2年の624件に次ぐ少ない件数となりました。
このうち、住宅火災件数は268件(前年比23件減)で、年ごとに変動はあるものの、全火災件数、住宅火災 件数ともに減少傾向が続いています。

横浜市の人口は約370万人なので、人口10万人あたりの年間火災発生件数は17.2件になります。

小田原市(Ref. 令和4年版消防年報

火災件数 90件

  • 建物火災 44件
  • 林野火災 0件
  • 車両火災 17件
  • 船舶火災 0件
  • その他の火災 29件

小田原市消防の管轄区域合計の人口は約29万人なので、人口10万人あたりの年間火災発生件数は31.0件になります。

小田原市(管轄区域内)の火災発生件数(人口比)は、横浜市の1.8倍って感じ。(感覚的にはもっと多い気がしてましたが、これが実態のよう。)

神奈川県全域と全国の火災発生件数の掲載されていたので見てみましょう。

令和3年の火災発生件数

神奈川県

1,850件÷90.6万人=人口10万人あたり20.4件

全国

35,077件÷1,257万人=人口10万人あたり27.9件

小田原市(管轄区域内)の火災発生件数(人口比)は、横浜市の1.8倍神奈川県の1.5倍、全国平均とほぼ同じ。地方(=田舎)に行くほど戸建て住宅が多いので、人口あたりの火災件数が増えるってこと?

▪️小田原の大火

「大火」の定義が難しいのですが、小田原市の情報を頼りにまとめてみました。

文化14年(1817年)筋違橋付近の大火(1,600戸焼失)
慶応3年(1867年)上幸田付近の大火(660戸焼失)
大正8年(1919年)万年町付近の大火(350戸焼失)
大正12年(1923年)地震による火災(Ref. 関東大震災と小田原
昭和20年(1945年)小田原空襲による火災(Ref. Wikipedia
昭和26年(1951年)万年町の大火(321世帯罹災)
昭和35年(1960年)山王原の大火(26世帯+2事業場を全半焼)
昭和48年(1973年)中町の大火(全焼27棟、半焼1棟、部分焼9棟)

万年町、山王原及び中町ともご近所ですね。詳しく調べてみましょう。

▪️戦後に発生したご近所の大火

万年町の大火
発生日時昭和26年(1951年)11月28日 午前1時30分頃
鎮火日時同 午前4時30分頃
発生場所(旧)万年町 (現)浜町4丁目付近、火元は木工場
罹災規模321世帯、死傷者なし
Ref. NHKアーカイブス
11月28日の午前1時半、小田原市万年町の木工場から出火。折からの強風で瞬くうちに300戸をひとなめに焼き尽くしました。 
幸い死傷者はありませんでしたが、着の身着のままで寒空に放り出された人たちは、見るも気の毒なありさまでした。 
こうした中で、どっと集まったくず鉄屋が、血眼になって、焼けたトタンや鍋釜を買いあさっているという皮肉な風景も見られました。 
Ref. NHKアーカイブス 

なんか「2011年温州市鉄道衝突脱線事故」の時に、現場に埋めた事故車両を掘り起こし、スクラップを売って儲けようとした隣国民と同じ匂いがする。終戦後まだ6年で、みなさん貧しかった。。。

当時の焼失地域(Ref. 広報小田原アーカイブス
現在(Ref. GoogleMaps)
現在(1️⃣西端)
現在(2️⃣東端)

江戸時代に火除地の一種として設置した広い通り=広小路と同様に、現在では交通量に対し広い道路が敷設されるとともに、区画整理されて碁盤の目のような住居区画となっています。

この地区は、大正8年(1919年)の火災、大正12年(1923年)の関東大震災並びに、昭和26年(1951年)の火災と、近年大きな被害を何度も受けているようです。

また、火災以外でも、明治35年(1902年)の小田原大海嘯の高潮被害も受けているエリアです。

一般に、昔から同じ場所にずっとあるお寺や神社がこの地域にないのは、過去の地歴として何度も集落がリセットされているためかもしれません。(国道1号線の北側にある宗福寺も、昔は海に近い場所にあったが、度重なる高潮被害を避けるため、今の場所に移転したらしい)

山王原の大火
発生日時昭和35年(1960年)9月20日 午後3時頃
鎮火日時
発生場所(旧)山王原 (現)東町2丁目付近
罹災規模26世帯、2事業場
Ref. 小田原写真館

海岸から山王原旧焼却場を望む。
火災現場の奥に防潮堤があり、その上に人が多数立っている様子が見える。
山王原旧焼却場は現在の中町第一公園のある場所。

1952年当時の航空写真(Ref. 国土地理院地図)

火災現場の奥に見えた防潮堤が現在の公園北側の道路とすると、現在の公園〜西湘バイパス(1967年開通)付近は広い海岸になっており、防潮堤の海側に住居があったと思われる。

高波・高潮対策の防潮堤の海側に家があるのはかなり危険な感じ。

現在(山王原公園付近より東を望む)
現在(山王原公園付近より西を望む)
中町の大火
発生日時昭和48年(1973年)10月7日 午後7時頃
鎮火日時10月8日 午前2時頃
発生場所中町1丁目付近
罹災規模35世帯
Ref. 小田原写真館
この写真、どこから撮影している?後方に写っている4〜5階建の建物より高い場所から撮影している様子。
1976(S51)年 中町焼跡に建設中の中町セントラルハイツ(Ref. 小田原写真館
火災前1973(S48)年3月撮影の航空写真(Ref. 国土地理院地図)

火災前の航空写真を探したところ、直前(同年3月撮影)のカラー写真が見つかりました。

この航空写真からは、火災直後の現場を俯瞰で撮影した場所(高い建物)が周辺には見当たりません。

スポーツプラザ神奈中小田原の営業開始は火災6年後の昭和54年で、航空写真からもビルはまだ建ってないようです。

現在(セントラルハイツ東側)
現在(セントラルハイツ)

▪️編集後記

今回の調査で、浜町4丁目の住宅街にある交通量に対して妙に広い道や、中町1丁目にある妙にスカスカなエリアの生い立ちがわかりました。

(Ref. ホームズ

(余談)セントラルハイツは1977年完成で築47年ですが、60m2規模の3LDKで1千万円台半ばから後半で、この10年でかなり値上がりしているようす。(小田原移住ブーム?それとも大規模修繕した?)

だったら我が家は今いくらするんだろう?

(おわり)